町名 | 13 桃山長岡越中東町 | ▼天理教分教会 ▼住宅案内版 ほとんどが住宅で、訪れたときはほとんど通行人に出会いませんでした。 住所表示板はすぐに見つかりました。 |
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読み | ももやまながおかえっちゅうひがしまち | |||
区分 | 新桃山 | |||
〒 | 0057 | |||
世帯数 | 58 | |||
人口 | 195 | |||
町名の経緯 | 旧堀内村 S18 分割 | |||
町の説明 | 区の中央部。桃山丘稜の西北麓に位置し、西をJR奈良線、南を丹波橋通が通ります。 東は桃山町の農林水産省林業試験場と隣接する。東南部カドに天理教分教会があるほかはアパートを含む新興住宅街であります。 |
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ゆかりの人物 | 細川越中守忠興 管領をつとめた細川家でも傍流のため、当時は長岡姓を名乗っていました。長岡京市の「長岡」です。 細川ガラシャとの物語で有名ですが、常軌を逸したエピソードが多く残ります。名門の出ながら勇猛な武将として名を轟かせました。 |
▼細川越中守忠興 |
▼こういう案内板もありました。 |
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人物詳細 | 細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。 足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 |