「伏見桃山」というところ ■「伏見桃山」は京都市伏見区の南部にある地域で、桃山丘陵とその周辺に位置します。 現在の行政区では「桃山町××」という町名と「桃山××町」という町名があり、68の町に分かれています。 この地域は、かつての伏見城と多くの大名屋敷が集まり一大政治都市として発展した城下町で、域内の町名にその名残をたくさんとどめています。 ■「桃山丘陵」は東山から深草丘陵を経た連なりの最南端にあって伏見区桃山地区の北半分を占めます。 伏見城築城前には「木幡山」と呼ばれており、山頂には桓武天皇の陵があったといわれます。廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植えられ、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになり、織田・豊臣政権期の時代区分「安土桃山時代」や、その時代に花開いた「桃山文化」などの呼称の元となりました。 桃山は平安時代より観月の名所として知られており、南に巨椋池を一望する風光明媚な地で、秀吉も最初ここに隠居屋敷を築いたといわれます。 戦前には修学旅行のコースにも組み込まれるなど参拝客が多く、周辺は高級住宅地としても人気がありました。1964年には伏見城の天守が復元され伏見桃山城キャッスルランドという遊園地が開設されました。 現在は、伏見桃山陵や柏原陵のある桃山陵墓地、乃木神社や伏見桃山城運動公園などがあるほかは、閑静な住宅街であり学校も多く立地していて、緑豊かな探鳥地としても知られています。 ■現在の「桃山城」は、新しく建て替えられた模擬城です。 伏見城は3度にわたって築城されています。 初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設されました。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられます。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わっています。 秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとりました。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失しました。 なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい痕を見ることができます。ただし、徳川家家臣らの自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではありません。 焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和5年)に廃城とされました。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築されています。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになったのです。 伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっていましたが、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられています。 2009年2月20日、宮内庁の許可を得た日本考古学協会によって伏見桃山陵の本格的な調査が行われ、敷地内に4−5メートルの盛り土がなされていることが判明しましたが、城郭を記した歴史的文献には存在しないものであることから、未発見の古墳ではないかといわれています。 ■伏見城花畑跡に1964年(昭和39年)に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内に洛中洛外図に描かれた伏見城を参考にして5重6階の大天守と、3重4階の小天守、櫓門などを伴った模擬天守が6億円(当時の金額)をかけて鉄筋コンクリート構造で造られました。 2003年1月、同遊園地は経営母体である近鉄によるリストラの一環で閉園しましたが、模擬天守は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり、無償で京都市に贈与されたほか、敷地を含めて同市により伏見桃山城運動公園として整備されました。 2007年10月、映画『茶々 天涯の貴妃』撮影のため東映が約1億円を負担し、望楼の下に虎の装飾がなされたほか、鯱を金色に塗り替えるなど大坂城に見立てた改修がなされ、これらの装飾は撮影終了後も同年内はそのままとなっていました。 2014年(平成26年)5月には復興天守築城50周年で記念行事が開催されています。 ■桃山の町名は人名の屋敷跡と町名表示が同じであった場所が散見できます。 町名からわかる伏見武家(屋敷)名
これらの地名から推測されている屋敷名は豊臣秀吉時代の家臣団だけでなく、徳川家康の家臣団も含まれていますが、大半は豊臣秀吉時代の大名達です。
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